1875年の讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例とは。

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今日も自由民権運動。

自由民権運動の初期と言えば、1874年の民選議院設立建白書から西南戦争までだよね。

愛国公党が民選議員設立の建白書を出したことは『日新真事詩』にも掲載されて、自由民権運動ってのは盛り上がっていったんだわ。この盛り上がりを抑えるための施策が讒謗律だったり、新聞紙条例なんだよね。

今日は、その讒謗律と新聞紙条例について見てみよう。

讒謗律と新聞紙条例とは

 

まずね、当時の政府の状況を思い出してみようよ。

明治六年の政変(1873年) → 征韓論に敗れて、板垣退助、西郷隆盛、江藤新平らが下野
台湾出兵(1874年) → 内治優先を掲げていた木戸孝允が下野

といった具合で、次々と実力のある政治家が下野していっちゃったわけ。
時の大久保利通は、明治六年の政変以降は「大久保政権」と言われて、政治のトップを務めていたわけなんだけど政権はグラグラだったのね。みんな辞めちゃったから。

そうじゃなかったら大阪会議で板垣退助と木戸孝允を参議に復活させないでしょ。

ということろに、啓蒙思想!自由民権運動!!!

国会開設!国会開設!といった具合で、明治政府を批判する人物が増えていっちゃったわけ。

だから明治政府は、「お前ら、批判すんな」ってことで讒謗律や新聞紙条例を出していったわけなんだよ。

 

○讒謗律(ざんぼうりつ)

讒謗の意味は、「人をばかにすること」で、讒謗律は本で官僚らの悪口を言うことは禁止!ってことね。

もし官僚の悪口を書いた場合は禁固刑にもさせられたよ。

○新聞紙条例

新聞や雑誌で、政府の悪口を言っちゃ駄目だよ!って条例だね。新聞をまったく発行しちゃ駄目ってわけではなくて、

「ちゃーんと政府の承認を受けてから発行しましょうね~」

という検閲が入るわけだね。現代の隣国のどっかの国みたいだね。

新聞紙条例によって、当時350以上発行されていた雑誌は200以下にまで減って、「こんなの新聞撲滅法だ!」と揶揄されたそうだよ。

 

あの明六社による、明六雑誌もこの新聞紙条例によって廃刊になったんだ。

明六雑誌と言えば、天賦人権説を唱えて民主的な政治を行うことを主張しているからね。「国会開けよ、おい」ってことだから、もちろん明治政府批判だよね。

 

○出版条例改正

1875年の同年には出版条例改正も行われているよ。

もともと出版物は許可制だったんだけど、事前届出制になった厳しくなったんだね。

 

明治政府のお気持ち

当時の明治政府の気持ちとしては、政府の要人がみんないなくなっちゃって、政権が不安定だったことと、

「まだまだこんな状態じゃ国会なんて開設できないよ」

という状態だったんだよね。1868年から始まった明治維新でたったの7年しか経っていないからね。

明治政府にとって処理しなければならない問題は山積みだったのに、人々は民主主義を主張している。

本当、明治政府大変だったと思うよ。

 

でも立憲政体樹立の詔でもって、元老院・大審院の立法、司法機関を設けて、地方官会議で、府知事・県令と会議をしていって徐々に民主主義に世間は変わっていくんだけどもね。

政府の形態ってのは色々あっておもしろいね。

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