由井正雪の乱(慶安の変)は家光が牢人をたくさん生んだせい?語呂合わせも

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前回は徳川家綱についてみてきたけど、その徳川家綱の時代にはなんと「幕府転覆未遂事件」が起きていたんだ。

 

その名も「由井(比)正雪の乱」。「慶安の変」とも呼ばれる。

 

 

家光がちょうど死去した年を狙って、兵学者の由井正雪が起こした乱だったんだけど、この事件には家光が行ってきた「ある政治」が関わっているんだ。

 

今回はこの「由井正雪の乱」について見ていくよ。

 

 

由井正雪の乱(慶安の変)ってなんで起こったの?

 

由井正雪の乱(慶安の変)の首謀者は冒頭でも言った通り、兵学者(軍事評論家みたいなもの)の「由井正雪」なんだけど、実際に武器を持って戦おうとしていたのは牢人たちだったんだ。

 

牢人については前回もちょっと触れたけど、おさらいしておくね。

 

三代将軍・家光の時代は、「武断政治」と呼ばれる、武力でほかの大名たちを押さえつける政治をしていたんだ。

 

逆らった大名は御家断絶にされたり改易されたりと厳しい処罰が下されて、その藩に仕えていた武士たちはみんなリストラされちゃったんだ。

 

これにより、路頭に迷った武士たちが街のあちこちであふれてしまった。

 

中にはもう武士として生きることを辞め、町人や百姓として生きることを選んだ人たちもいた。

 

こういった人たちを「牢人」と呼ぶんだ。

 

で、この牢人たちの中には当然、幕府に強い恨みや不満を持つものが現れる。

当然っちゃ当然だよね。幕府のせいでいきなりリストラされちゃったんだから。

 

 

由井正雪はこの「牢人」の存在に目を付けた。

牢人となった武士たちを集めれば、幕府転覆も為せるのではないかと考えたんだ。

 

そこで集まったのが、牢人・丸橋忠弥(まるばしちゅうや)率いる牢人軍団。

 

徳川家光が慶安四年(1651年)に死去して4代将軍に家綱が就いたんだけど、まだこの時家綱は幼くて政治を行うなんてとてもできなかった。

 

これをチャンスと見た由井正雪は行動を開始。

 

計画立案は完璧なように思われたけど、その一味だった奥村八左衛門による密告で計画が幕府側に察知されてしまう。

 

慶安四年(1651)7月23日に江戸で丸橋忠弥は捕まり、26日には駿府で宿泊中の由井正雪を幕府側が包囲し、由井正雪は自害。

 

8月10日には丸橋も磔刑にされてこの乱は終了した。

 

1651年に起きた乱だから、「色恋小説(正雪)」と覚えるといいよ。

 

 

この乱を契機として、幕府は「牢人を生み出し続けていたらいつか自分の首を絞めることになる」と身に染みて感じたんだ。

 

まとめ

 

家光の武断政治が招いた、「牢人の発生」と「由井正雪の乱」。

 

これを受けて徳川家綱とその家臣たちは、「末期養子の禁緩和」を打ち出すことになる。

これについては次回解説していくよ。

 

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