1885年の天津条約の内容は甲申事変の後処理条約です。

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今日は不発に終わった甲申事変の後処理条約、天津条約について。

1858年にも天津条約ってのがあって、こっちはアロー戦争後に結ばれた条約だから、ごっちゃにならないように気を付けてな。

1885年の方の天津条約の方が日本史の勉強では大事だからな!年号も似てやがるからまったく嫌になっちゃうよな。

 

へ?甲申事変ってなんですか?って殴るぞ、この野郎!

金玉均と朴詠考が独立党を結成して、閔妃一族を殺そうとしたクーデターだろ!清がフランスと戦争してるのを良いことに起こしたクーデターだってば!

やれやれ。反省して過去記事見ろよな。

天津条約の内容

日本と清は、甲申事変の後に以下の内容を取り決めるよ。

 
①日本も清も朝鮮から撤兵しよう
②軍事顧問を派遣するのは辞めよう
③出兵する時は、ちゃんと教えてね?

 

という3つの内容なんだわ。日本と清は朝鮮の支配を巡ってバチバチやってたわけだから、この天津条約でもって、「今までさんざん喧嘩ばっかしたけどさ。ちょっと疲れたじゃん?だから少し休まない?」という形で落ち着いて小康状態になったわけ。


日本→伊藤博文
清→李鴻章

 

が全権となって、取り決めたよ。実際のところは、清が朝鮮の支配を強めていた状況は変わらず、日本の勢力は大きく後退していっちゃったわけだね。

だって甲申事変なんて、独立党が日本の力を得てクーデター起こしてるわけだから。天津条約で「お互いお休みな?」くらいの条約になって実はちょうどよかったくらいなの。

 

でも日本内部では、そんな反応ではないね。

自由民権派は、「何やってんだよ!日本の政府は!!武力でもって朝鮮を支配しちゃえばいいじゃんよー!!」とイケイケどんどんだったわけ。

日本の急進派は朝鮮を清国から独立させて、乗っ取ろう!って気概が強かったから、政府も呼応するかのように徐々に日本が指導して朝鮮を独立させようという動きになっていったわけね。

この天津条約から25年後にやっと韓国併合を行うから、この時から徐々に朝鮮に対する思い入れを募らせていくわけさ。

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