天保の改革は誰が行った?当時の将軍や覚え方。

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さあ、今回からいよいよ江戸三大改革の最後、天保の改革を見ていくよ。

 

天保の改革は、どんどん落ちていく幕府の権威をなんとか奮い立たせようとした改革。

・・・だったらよかったんだけどね~。

 

結果から先に言うと、この改革は大失敗する。

 

今回は天保の改革の基本情報を見ていくよ。

改革を行ったのは誰?

 

天保の改革を行ったのは、老中首座(トップ)の水野忠邦。

忠邦は11代将軍の徳川家斉の時代にすでに老中になってたんだけど、家斉が大御所政治で実権を握っていたから思うように政治ができなかった。

 

忠邦が「とりあえず金の無駄遣いはやめようぜみんな!」と言っても、家斉の時代で緩みきってる役人たちは「うるせぇ!贅沢するに決まってんだろ黙っとけ!」と総スカン。

 

家斉が死んだおかげでやっと忠邦のターンが始まり、忠邦は天保の改革を始めることになる。

この時の将軍は12代将軍・徳川家慶。

大奥からは特に嫌われていた忠邦

 

江戸時代後期になってくると、正室・側室など将軍の妻たちの力がどんどん強大になっていった。(この人たちが住んでいるのが、有名な『大奥』だ。)

 

大奥は忠邦が改革を行う時代、政治に直接関わっていたわけではないんだけど、今でいう「お局(つぼね)さん」みたいな・・・なんだかんだで口出ししてくるようになっていた。

 

この大奥から反発を食らった人として有名なのが松平定信と水野忠邦。

定信・忠邦はどちらも幕府内に倹約を求めたんだけど、これを大奥が良しとしなかったから反感を買ってしまった。

 

この二人は大奥からの反発が強くて失脚に追い込まれたとも言われている。

 

天保の改革の覚え方

語呂合わせなんかはいろいろあるけど、

いやしい(1841)水野の天保の改革

が一番シンプルで覚えやすいと思うよ!

まとめ

水野忠邦は何とか幕府の威光を取り戻そうとするけど、腐りきった幕府内や荒んだ日本を改革するのは極めて困難だった。

 

次回からは、忠邦の行った数々の施策について見ていくよ。

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