中山忠光の天誅組の変の意義。尊王攘夷運動は最高潮!

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前回は八月十八日の変について話したね。

大和行幸の何が問題か?って天皇が大和国でお祈りして、攘夷を成功させようとすることなんだよ。天皇が軍事指揮権を発揮するってことは、江戸幕府を無視する!ってことだからさ。

長州藩からしたら討幕運動だからね。そんな攘夷運動が最高潮に達している事件が、天誅組の変さ。

天誅組って名前がかっこいいよね。

天誅組の変ってなんでしょ

 

中山忠光を首領とする天誅組が大和の代官所を襲った事件!

代官所ってのは江戸幕府の役所ね。

 

土佐藩の吉村寅太郎をはじめとする、尊王攘夷派の浪士がね、中山忠光を首領にして江戸幕府の役所を攻撃したわけ。この出来事は八月十八日の政変の前に起こるよ。

この中山忠光ってのは中山って苗字だけど、公卿でね。

下関戦争の時には長州に招かれて、下関戦争の武力行使に加担してんのね。四国艦隊アベンジャーズに長州が負けちゃった後は、中山忠光は京都に戻って謹慎させられる。ついでに侍従(じじゅう)って立場も失うね。

中山忠光は天皇の大和行幸のことを聞いてね、

「こうしちゃいられん!挙兵せねば!!」

と自分も吉村寅太郎と一緒に大和を向かって、8月15日に天誅組を作るわけ。忠光は熱い奴だね。

 

結局、ここから9月に入るくらいまで暴れ続けるんだけど、ご存じのとおり8月18日には八月十八に政変が起きて、薩摩藩・会津藩の公武合体派が朝廷をおさえつけるんだよね。

江戸幕府も天誅組に対して、彦根藩・紀州藩・津藩・郡山藩の人間を10,000人以上送って天誅組を討伐するよ。

9月に入った頃には天誅組も士気が低下していてあっさり負けちゃうの。

 

中山忠光の運命は、長州に逃げるんだけど薩摩藩の人間に暗殺されちゃうのね。

 

天誅組の変からわかること

この事件は、尊王攘夷運動が地方でも絶好調に達していたことを示しているよね。

孝明天皇が大和に行幸するって聞いて、自分たちも挙兵して江戸幕府の管轄を攻撃しちゃうくらいだから。

思想から挙兵に至るってのは相当な盛り上がりだよ。

 

天誅組の変は江戸幕府の討伐によって失敗に終わったわけだけど、江戸幕府の弱体化と反対勢力がいかに強力になってきているかということを示している事件だね。

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