正徳の治の結果、成果とは?年号の語呂合わせも

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徳川将軍・影が薄いシリーズ一番手の家綱はこれまでの記事で何度か紹介してきたよね。

 

綱吉は良い意味でも悪い意味でも注目を浴びていたけど、綱吉の次の代、第六代将軍である徳川家宣と第七代将軍・徳川家継についてはあまり話題になることがない。

 

それもそのはず、なんと家宣と家綱は二人とも3年程度しか将軍の座についていない!!

 

こんなに在職期間が短いんだったら話題が少ないのもうなずける。

 

 

この2将軍の時代はむしろ、その補佐をした人たちに注目が集まった。

 

その補佐した人たちというのが、新井白石間部詮房(まなべあきふさ)。

 

この二人による政治が行われていた期間は、「正徳の治」とも呼ばれているよ。

 

 

新井白石、間部詮房って?

 

正徳の治は、第六代将軍家宣・第七代将軍家継が将軍職に就いていたとき、将軍の政治顧問・新井白石、側用人・間部詮房が政治の実権を握って行われた政治のこと。

 

儒学思想をもとに、家綱や綱吉の行ってきた「文治政治」をより一層強固にした。

 

新井白石は朱子学の学者で、家宣が将軍就任のときに用いられるようになった。

間部詮房はその経歴が特殊で、猿樂師の弟子という「芸能出身」であるにもかかわらず最終的に家宣の側用人にまで昇進した、日本史上唯一の「大出世」を遂げた人なんだ。

 

正徳の治って?

 

正徳の治では様々な政策が行われた。

 

ゴロは「人なお苦しむ(1709)正徳の治」で覚えよう。

 

・・・んだけど、この記事だけですべてを書こうとするとあまりに長くなってしまうので、今回はダイジェストでお送りし、詳しい内容の記事についてはリンクを貼っておくよ。

 

  • 正徳金銀の発行

綱吉の時代、荻原重秀による元禄小判の鋳造によって当時の経済は急激なインフレが起きていたことは前回話した通りだね。

 

これを、慶長小判の金含有量にまで戻すという政策。

 

急激なインフレから今度は急激なデフレを引き起こす事態に。

 

 

  • 海舶互市新例の制定

鎖国中の日本だけど、長崎では中国やオランダとの貿易を続けているよね。

 

ここでの決済では金銀が使われていたんだけど、この貿易のせいで日本の金貨や銀貨が海外に大量に流出してしまったんだ。

 

これを問題ととらえた新井白石たちは、輸入規制をし、国産の商品を発展させようとした。

 

 

  • 朝鮮通信使待遇問題への対応

秀吉の時代、秀吉が調子に乗って朝鮮出兵をしたせいで日朝関係は壊滅していたんだけど、家康の時代に何とか国交回復にこぎつけ、朝鮮から将軍が変わるごとに「通信使」という使者が送られてくるようになった。

 

しかし新井白石は「朝鮮通信使への待遇があまりにも良すぎないか?朝鮮と日本は対等でなくっちゃなあ」と考え、「朝鮮通信使への待遇は簡素にしようぜ」と訴えた。

 

 

  • 閑院宮創設

江戸時代には、「宮家」と呼ばれる後続の家系がいくつかあった。

 

今では「秋篠宮」「常陸宮」「三笠宮」「高円宮」があるね。

 

江戸中期の時点では、「伏見宮(ふしみのみや)」「京極宮(きょうごくのみや)」「有栖川宮(ありすがわのみや)」の三家があったんだけど、当時皇族は財政難のせいで皇子や皇女を出家させていたんだ。

 

もし万が一皇族に血筋が続かなくなってしまったら大問題。

 

これを防ぐために4つ目の宮家、「閑院宮(かんいんのみや)」を創設して万一に備えようとした。

 

まとめ

 

以上が、正徳の治で行われたこと。

 

総じて正徳の治の改革政策は成功で、文治政治をより推し進めることに成功したよ。

 

でも一方で急激なデフレを引き起こしてしまったことから、庶民の生活は不安定な状態が続いていたこともまた事実なんだ。

 

 

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