島原の乱!恐れていたことが現実に・・・

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前回の内容は禁教令!

キリスト教を放っておくとスペインやポルトガルに侵略されたり、信者が団結して反乱を起こされる可能性があるから禁じちゃおう!っていう法令だったね。

元和の大殉教では多くの宣教師や信者が殺されたけど、隠れキリシタンとしてその後もキリスト教を信じ続けた人々もいたよね。

 

しかーし!ついに幕府が恐れていたことが起こってしまうわけだ。それが今回のメインテーマ、「島原の乱」!

さあ見ていこう!

 

島原の乱の勃発

この乱の発端は、島原・天草地方(長崎県)で当時続いていた「飢饉」。

天草領主の寺沢広高と島原城主の松倉重政は、飢饉でキツい農民に重い年貢をかけまくり、キリスト教徒も弾圧したりしていた。それに堪忍袋の緒が切れて起こした一揆なわけだ。

というのも、昔はこの天草・島原地域はキリシタン大名やキリスト教徒が大勢いたところだったんだ。そんなところでキリスト教徒の弾圧とかをされたらたまったもんじゃないよね!

この一揆では、天草四郎時貞をボスとして、原城跡に立て籠もることで抵抗をした。

 

幕府は最初軍を派遣して鎮圧しようとしたけど、この一揆の連中が強くて失敗。続いて派遣された老中の松平信綱は九州の総力を挙げてこの原城を包囲して兵糧攻め(食糧不足で相手を弱体化させる戦法)をとって、おまけに海上から砲撃もかましてようやくこの一揆は鎮圧された。

 

絵踏

 

何とか鎮圧したけど、結局は幕府の恐れていたことが実際に起きちゃったんだよね。だからこの後、幕府はキリスト教徒を根絶しようとする。

ここで有名なのが、イエス・キリストや聖母マリアの描かれた“踏絵”を九州地方の人々に踏ませる「絵踏」を行った。信者にとっては神様を足で踏むなんてことは言語道断なわけだから、踏めない信者は処刑されていった。

さらに幕府は宗門改役をおいて、人々がどんな宗教を信じているか確認して記録する役人をおいてさらに禁教を徹底した。

 

ここでちょっと脱線するけど、この島原の乱の後、キリスト教とは関係ない「日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)」も禁じられた。

なぜか。それはこの宗教が、「幕府なんかよりウチの宗教のほうが上だぜ!」っていう教えを説いているからなんだ。こういう連中がいると、キリスト教でなくてもいずれ島原の乱の二の舞になるかもしれない、そう幕府は考えたんだ。

 

こうして幕府は、「オレに従うやつは許してやる。逆らうならブッ飛ばす!」といういかにもジャイアン的な、幕府に従う宗教のみを認めていく方針をとっていったんだ。

 

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