桜田門外の変もわかりやすく。何故、水戸藩なのか?

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

これまで井伊直弼の話をしてきたよね。大事なことは何度でも言うよ。

井伊直弼が抱えていた問題は、「将軍継嗣問題」と「勅許なしの条約調印」だったよね。将軍継嗣問題では、一橋派とモメるし、条約調印では孝明天皇にブチ切れられるしさ。

そんな井伊直弼なんだけど、「幕府を批判するやつは全員処罰!」という行動に出るのね。これが安政の大獄だったよね。

 

今日は、そんな直弼が殺されちゃう桜田門外の変に関してだよ。

 

桜田門外の変って?

簡単に言うと、井伊直弼が水戸浪士に殺されちゃう事件。1860年の話だよ。

正確には17人の水戸浪士と1人の薩摩浪士だね。みんな攘夷派で、「外国人うぜぇ組」。外国人は排斥しようよ!って考えだから、勝手に日米修好通商条約を結んだ井伊直弼を恨んでたわけ。

安政の大獄の時にも話したけど、井伊直弼は将軍継嗣問題で争った一橋派を弾圧するのね。

一橋派の代表人物の徳川斉昭(慶喜のお父さんね)は、水戸藩なのさ!!水戸藩の藩主なんだよ。

これで良くわかったかな?

安政の大獄で水戸藩は井伊直弼に弾圧されていたわけ。

 

井伊直弼は江戸城の桜田門で殺されるから、桜田門外の変と呼ばれるわけだね。

この事件は衝撃的でさ。1600年頃から250年以上続いてきた江戸幕府の信頼を奈落の底まで落とす事件だったわけ。幕府の権威が失墜ね。

まぁ井伊直弼は幕府の大老だったから。江戸幕府を存続させるために必死だったわけだから。

異例の戊午(ぼご)の密勅が出されていた

こっからは早慶レベルね。
実は、井伊直弼が批判する人たちを弾圧する安政の大獄の前に、「戊午の密勅」というものが出されていたんだよ。

孝明天皇が、勝手に日米修好通商条約を結んだ江戸幕府に対してブチ切れててさ。

内緒で水戸藩に勅諚(ちょくじょう)=天皇の命令を送っていたのね。
「江戸幕府がなんか勝手なことしてっけど、俺様天皇は攘夷派だから!公武合体しようぜ!!」
って。密勅と言われる理由は関白を通した正式な手続きを取っていないんだよね。

水戸・紀州・尾張は徳川御三家だったじゃん。将軍に次ぐ権力を持っていたから、天皇も水戸藩に密勅を送ったわけだね。

 

覚えていると思うけど、将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた徳川斉昭は水戸藩の藩主だったから。

水戸浪士が井伊直弼を暗殺したのも納得できるかな。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

当ブログの有効的な使い方

「大学受験の日本史を極めるブログ」は使い方1つで、結果が大きく違ってきます。

・国公立・早慶レベルまで知識を深めるには?
・知識を定着させるアウトプットの方法は?
・良くわからない時はどうしたらいいの?

そんな悩みを解決する、当ブログの使い方をじっくり読んでみてください。

当ブログの使い方はコチラ

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*