プチャーチンの日露和親条約はペリーの二番煎じか?

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ロシアのプチャーチンと言えば、日本と日露和親条約を結んだことで有名だよね。

けどペリーに先を越されたからか、「二番煎じ野郎」のレッテルを貼られているとか貼られていないとか。でもね、プチャーチンって結構すごいやつだし、ペリーに先を越されたのってたったの1か月半なんだよね。

それにプチャーチンに関しても覚えておかないといけない点って結構あるから今日もしっかり聞いてくれよ。

プチャーチンの日露和親条約

 

まずは、受験が優先だ。日露和親条約の内容について触れるよ。

・千島列島の日本とロシアの国境を択捉(えとろふ)と得撫島(うるっぷとう)の間にするよ。
・樺太はそのままでいいよ。
・下田・函館・長崎を開港してよ。
・ロシア領事を日本に置くからね。

ということだね。これらの内容はマストで覚えておかないとダメだよ。

プチャーチンって1853年ペリーに遅れること1か月半で、長崎に来航しているのさ。

実はね、アメリカのペリーって最初長崎にも行こうとしたんだけど、「オランダに邪魔されたら、めんどいから」って理由で浦賀に行ったんだよね。へぼいなー。

そこを敢えて、長崎に行くあたりがプチャーチンの男気だよね。

シーボルトが助言したんだけども、『日本に紳士的な態度を見せる』という名のもと、対外窓口になっている長崎に行ったんだよね。

日本人はギャップに弱いからか、武力行使で強い姿勢を示してペリーの印象は最悪。プチャーチンは紳士的で素敵!だったわけ。

 

年号は、日米和親条約と一緒で1854年のことだね。

アメリカのペリーが江戸幕府に「1年だけ待ってやる」って言ったことから、足並みをそろえた恰好なわけだ。

 

 

でもってプチャーチンの可哀想なところは、日露和親条約の締結をしている時に、安政東海地震が来ちゃうところだね。

これで安政東海地震の年号が1854年だって覚えられたね!

 

 

今日はこれくらい!

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