観応の擾乱とは?わかりやすく 語呂合わせも紹介!

建武の新政が終わり、後醍醐天皇は天皇ではなくなってしまったね。

しかし、失敗してもめげずに2回も討幕計画を企てた後醍醐天皇は、こんなことではすぐに引き下がらなかったみたい。

なんと、京都の朝廷だけではなく、後醍醐天皇が吉野にも朝廷を開いてしまったんだ。

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建武の新政とは?簡単にわかりやすく

後醍醐天皇は元弘の変で島流しになってしまったけれど、

鎌倉幕府が滅亡した後、京都に戻ってくるんだ。

そして、後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生するんだ。それを「建武の新政」というんだ。

今回は「建武の新政」について見ていくよ。

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元弘の変とは?年号の語呂合わせも紹介!

前回は、後醍醐天皇が討幕に失敗してしまった正中の変について説明したね。

まだ読んでいないという人がいたら、ここを見てみてね。

後醍醐天皇の討幕への思いは固かったから、失敗してもめげずにもう1度討幕計画を実施するんだ。

それが、「元弘の変」。

今回は後醍醐天皇の2回目の討幕計画について見ていこう。

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宝治合戦はなぜ起こった?わかりやすく解説するよ。

前回は御成敗式目について詳しくみてきた。

3代執権であった泰時は、御成敗式目を制定して御家人たち武士のための「法律」をつくったんだったよね。

 

さて今回からはは、少し時間を進めて5代執権北条時頼について。

 

時頼も泰時と同じように、北条氏の権力を不動のものにすべくいろいろな方策を練っていく。今回はその中でも、執権を握る北条氏の家系(得宗家ともいう)の権力を確固たるものにした「宝治合戦」について見ていくよ。

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御成敗式目をわかりやすく!定めた人やその目的について。

北条泰時の執権就任以後、鎌倉幕府の政治体制が大きく変わる。

 

政子と義時っていう北条家の中でも頭一つ出てるような権力者が次々死んでしまったんで、地固めが十分じゃなかった泰時は連署と評定衆を作って合議制にしたんだったね。

 

で、これとは別に泰時は法整備も進めていった。その法っていうのが、御成敗式目だ。

今回は御成敗式目を詳しく見ていこう。

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北条泰時の政策は?まず「連署」と「評定衆」で合議制だ!

今回は前回の話のつづき。

泰時は政子に呼び寄せられて急に執権となったけど、まだ準備ができてなかったために政治的能力は未熟だった。

 

そこへ政子の死が重なってしまい、ピンチに陥ってしまう。

義時はこの難局を乗り切るため、大きな改革に乗り出していくよ。

 

詳しく見ていこう。

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北条泰時は「承久の乱」後の三代執権!政子の死で改革を始めるぞ。

さて、これまで何回かにわたって「承久の乱」がらみの話題に触れてきたけど、いよいよ今回が最後の項目だ。

承久の乱が起きる前を見ると、幕府側の権力は北条氏「執権」という立場で握っていて、鎌倉を中心に東日本に影響力が大きかった。対して西日本側は朝廷の影響が根強くあったんだよね。

 

それが承久の乱でパワーバランスが崩れ、幕府つまり北条氏が朝廷よりも影響力に関して上になるという状況になったわけだ。

で、承久の乱後の執権というのが、3代執権の北条泰時だ。

 

義時は「執権政治を確立へと導いた人」とも言われていて、いろいろ注目すべき政策がある。

詳しく見ていこう。

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