二・二六事件とは? 皇道派と統制派についても

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二・二六事件をはじめて聞いたときは、なんでこんな無計画なことをしてしまったんだろう、と思った。

でも世界大恐慌を経験した若者たちは「日本をどうにかしたい」という思いが物凄く強かったんだろうね。

 

そこで、いままでの腐敗した財閥や制度をぶっ壊して、新しいものをつくればうまくいくと考えたのだろう。

でも一から新しい制度なりなんなりをつくるのはめちゃくちゃ大変。そんな計画もなく、本当に「どうにかしたい」という思いだけが外に出てしまったんだね。

 

それじゃ、本題に入ろうか。

 

 

二・二六事件の背景―原因・影響

 

1930年代はじめ、満州事変の影響で、もっと日本のを中心にして他の国を支配していこうぜ!という雰囲気が高まっていったんだ。

 

他国を支配していこうとする過程で邪魔なのは政府。

決定を下すのにいちいち議論しないといけないし、国際関係も気にしちゃっているからなかなか満州の支配も進まなかった。

いまの決断の遅い政府をどうにかしよう、と考える人たちが増えてくるよ。

 

そこで、とにかく現状維持を目指して政治をやっているやつを片付けよう、という動きが軍部の間で起こる。

それが天皇機関説問題(ここで詳しくやったよ)だった。

 

天皇機関説問題(1935年)というのは、これまでの政府が支持してきた天皇機関説を批判して「けしからん学説だ!こんなことを考えている人間は政治をやっちゃだめだ」という空気をつくって、陸軍に都合の悪い人間を政治から追い出そうしたこと。

 

でもこの攻撃に対して政府がとったのは国体明徴声明(ここで詳しくやったよ)だった。

これは「実は私たちもそう思っていたんですよ。いやはや天皇機関説っていうのはけしからんですなあ。」

と相手に同調して批判をかわすことなんだ。

 

しかし、国体明徴声明(1935年)によって天皇機関説を否定してしまったため、天皇の絶対的な権限を認めてしまうことになるよ。

たとえば、天皇が議会をストップして、軍事政権をつくってもなにも問題がなくなってしまったんだ。

 

皇道派と統制派

 

日本を中心としてもっと他国を支配しようぜ!という雰囲気で結びついていたかに思えた陸軍だったけれど、1930年代半ばには派閥間の対立が激しくなってくるよ。

 

その派閥は、皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)の二つ。

 

皇道派は天皇を中心として強い政府をつくろう!そしてどんどん他国を支配しよう!という派閥。元老、重臣、政党、財閥といった現状維持派をとにかく批判して排撃しようとしていた。

 

そして、統制派は現状維持派ともうまくやりながら陸軍全体の統制を強化しよう!というもの。

 

二・二六事件で大きな動きをするのは皇道派のひとたち。

北一輝(きたいつき)の『日本改造法案大綱』(にほんかいぞうほうあんたいこう)をバイブルとして、クーデタで天皇中心の軍事政権をつくろうとかんがえていたんだ。

 

そんなときに国体明徴声明によって、天皇が議会をストップして、軍事政権をつくってもなにも問題がなくなってしまったんだ。

 

 

二・二六事件

 

二・二六事件(に・にろくじけん)が起こったのは1936年。

 

首相官邸、警察庁などが皇道派の青年将校たちに占領されたんだ。

その結果、高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相、斎藤実(さいとうまこと)内大臣、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)陸軍教育総監らが暗殺されることになる。

 

なんでこんなことをしたのかというと、皇道派の青年将校たちがクーデタを起こして天皇中心の国をつくろうとかんがえていたんだ。

だから、首相官邸や警察庁を占領したら、あとは天皇からの「よっしゃ!私中心の国をつくるよ!」という命令を待つだけだった。

 

しかし、皇道派の青年将校たちが思い描いたようにはならなかった。

というのも天皇本人の考えは皇道派のひとたちの考えとは違っていたからだ。

天皇の強い意志で彼らは鎮圧されることになった。

 

天皇からしたらいい迷惑で、クーデタをおこした青年将校たちからしたら大きな失望であっただろ。

 

このクーデター未遂によって皇道派は力を無くし、統制派がどんどん政府を引っ張っていくことになるよ。

 

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