明暦の大火は幕府の陰謀?延焼範囲、当時の将軍など

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江戸時代では、火事が今では考えられないペースで発生していた。

 

それも1軒全焼するといったレベルではなく、町の半分が燃えるといった大火事が起こるんだ。恐ろしいことだよね。

 

その中でも一番被害が大きかった火事が、「明暦の大火」

 

徳川家綱の時代に起きた火事だ。

 

この明暦の大火なんだけど、地震や空襲などによる火災を除くと、なんと日本史上最大の火事だったんだ。

 

世界的に見ても明暦の大火レベルの火災はほとんどなくて、ロンドン大火・ローマ大火と並んで世界三大火とも言われているんだ。

 

今回はこの「明暦の大火」について、詳しく見ていこう。

 

 

 

明暦の大火による被害

明暦の大火は、江戸時代に起きた3つの火事の中で最大規模だったので、江戸三大火の筆頭に挙げられる火事なんだ。

 

その被害が尋常じゃない。

 

外堀より内側はほぼ全て全焼、大名屋敷・市街地の大半が焼失、江戸城の天守閣までもが焼けてしまった。

 

http://www.kandagakkai.org/oshirase/docs/rn99-16-04.pdf

 

 

死者数も恐ろしい数字で、諸説あるものの一番少なくて3万人、多くて10万人もの人が亡くなった。

 

2日間の間に3つの場所から次々出火したことで火を食い止めることができなかったと言われている。

 

またこれほどまでに死者が増えてしまったのは、民衆が非難する際に車輪のついた箱に家財道具を詰めて逃げようとしたため大渋滞が発生して逃げ遅れたことも原因だった。

 

 

一番最初に火が出たのは本妙寺というお寺。

火が出た原因ついては主に3つの説がある。

 

  • 幕府放火説

当時江戸は人口過密が凄まじく、衛生環境や治安がすこぶる悪化していた。そのため幕府は、「街を全部焼き払っちゃえば簡単に作り直せるんじゃね?」というサイコ的な発想で放火したという説。

 

あまり考えたくない恐ろしい話だけど、実際に火事の後は大規模な都市改造がされているからあながちウソとも言い切れないんだ。

 

でも江戸城も燃えちゃってるから真偽は定かではないけれどね。

 

  • 本妙寺火元引受説

実は火が出たのは老中の屋敷だったんだけど、「幕府の重鎮が火を出したなんて知れたらヤバい!」ということから、お隣のお寺・本妙寺から火が出たということにした、という説。

これは、本妙寺が明暦の大火後も幕府に優遇され火事の前よりも大きい寺となったりしたことが根拠になっている。

 

  • 本妙寺失火説

これは本当に本妙寺から火が出た、という説。

なんだけど、これにまつわる伝説がちょっと嘘くさいので信ぴょう性は低い。

お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。

当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16)のものとなる。ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ、本妙寺に運び込まれてきた。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB

 

この伝説から、振袖が招いた火事ということで、この明暦の大火は別名「振袖火事」とも言われているよ。

 

保科正之の復興政策

 

明暦の大火によって江戸は焼け野原になってしまったんだけど、不幸中の幸いというべきか、都市改造は容易にできるようになっていた。

 

保科正之は、まず今後また火事が起きたときに備え、大通りの道幅を6間(10.9m)~9間(16.4m)に拡張。このほか新しい橋や堀をつくったりして延焼対策を徹底した。

 

天守閣再建に関する保科正之の名エピソードは前回紹介したね。

 

こうして、江戸を明暦の大火前より火災に強く、住みよい街へ作り替えていったんだ

 

まとめ

 

明暦の大火という惨劇で、非常に多くの江戸市民がなくなってしまった。

けれど保科正之を筆頭とする幕府によって、江戸の町はより良く生まれ変わっていったんだね。

 

しかし、もし幕府が火をつけていたとしたら・・・。

保科正之は関わっていてほしくないよね。

 

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