不戦条約とロンドン海軍軍縮会議とは?内容をわかりやすく

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第一次世界大戦以前の戦争では勝者には土地やお金などの利益が犠牲よりも多くもたらされたんだ。

でも第一次世界大戦を経験した国々は「たとえ勝ったとしても、得るものより失うものの方が大きい」ということを学んだんだね。

勝者が新しい秩序を決める、というのは変わらないけど、その勝者が「なるべく戦争をしたくない」という感情に傾いていったんだ。

だから第一次世界大戦以降強い国は、権力を保ちながらいかに戦争をしないか、というふうに考えるようになる。

 

単純に平和を願うようになったのではなく、さまざまな思惑があったんだ。

 

それじゃあ、本題にはいろうか。

 

積極外交と協調外交

 

1928年の不戦条約は田中義一内閣のとき。1930年のロンドン海軍軍縮会議は浜口雄幸内閣のときで外相は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)。

 

田中義一内閣は積極外交で有名だね。

 

積極外交は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の協調外交と比較してみていくとわかりやすい。

 

田中内閣の前は若槻内閣だったね。

そして若槻内閣のときの外相は幣原喜重郎。

幣原喜重郎は何度も外相になって登場してくるから注意しよう!

 

幣原喜重郎は協調外交(幣原外交)をしていた。

協調外交というのは、武力ではなく話し合いで解決しよう!というワシントン会議以降とられた外交のやり方のことをいうよ。

だから中国に関しても不干渉の姿勢を貫いたんだ。武力で抑えつけることはしないよって。

でもこれに対して不満に思う人も多くいる。枢密院ね。

 

そんな外交をしたら、満州の日本の利権を守れないじゃないか!という訳。

 

で、若槻内閣を潰すために金融恐慌の取付騒ぎを収束できないようにしたんだ(ここで詳しくやったよ)。

そして若槻内閣から田中義一内閣にかえた。それが1927年ね。

 

 

だから田中内閣は協調外交とは正反対の積極外交(せっきょくがいこう)をせざるを得ない状況にあった。

満州の利権を守って、あわよくばさらに大きな利益を得ようというわけだ。

そのことが山東出兵(ここで詳しくやったよ)や張作霖爆殺事件(ここで詳しくやったよ)につながったんだね。

 

 

積極外交なのは中国に対してだけ?

 

だから田中内閣のときに欧米諸国に対しても反発しているように連想してしまうのだけれど、そうではないんだ。

中国に対しては積極外交をしていたけれど、欧米諸国に対しては協調外交をしていたんだ。

 

それが、1927年の

ジュネーブ軍縮会議(ぐんしゅくかいぎ)、

に日本が参加していたことからもわかるし、

1928年の

不戦条約(ふせんじょうやく)

締結からもわかるね。

 

ジュネーブ軍縮会議はイタリアとフランスが不参加だったし、アメリカとイギリスが対立してうまくいかなかったんだ。

軍縮となると力関係がはっきりとあらわれてしまうからね。

 

しかし、1928年の不戦条約は締結されるよ。

これは、「国際紛争が起こったら戦争をして解決をする、といったいままでのやり方を考え直そう!」「戦争ではなくてもっと平和的な解決をしよう!」という約束なんだ。

 

何か問題があったらすぐに戦争というこれまでのやり方を続けていたら、また第一次世界大戦のように大規模化してしまう。

多くの国が嫌な思いをしたから、こういう約束をするのは当然だよね。

 

でも注意したいのが、1927年は山東出兵が始まった年だし、1928年は張作霖爆殺事件があった年だということ。

ジュネーブ軍縮会議と不戦条約は田中義一内閣のときであって、幣原喜重郎が外相のとき「ではない」のだ!

田中内閣は一貫性はないけれど、二枚舌を使ってうまく日本を運営しようとしていたんだね。

 

ロンドン海軍軍縮会議とは?

 

張作霖爆殺事件のあと積極外交をしていた田中内閣が責任をとって総辞職をするよ。

その次に首相になるのが

浜口雄幸(はまぐちおさち)!!

1929年からね。

 

そして浜口内閣の外相は再び幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)になるよ。

幣原喜重郎は安定して協調外交をするから安心して。

 

浜口内閣時の幣原がしたことでおさえておきたいのが、

ロンドン海軍軍縮会議(かいぐんぐんしゅくかいぎ)!!

 

ロンドン海軍軍縮会議で話し合われたのは、補助艦(ほじょかん)の制限。

 

でも、参加国の米・英・日・仏・伊のなかで調印したのは米・英・日だけ。

仏・伊は調印しなかったんだ。

 

けっきょく米・英・日の補助艦のは総保有比率は「ほぼ」10:10:7と決まったよ。

 

そこで結ばれたのは、

ロンドン海軍軍縮条約(かいぐんぐんしゅくじょうやく)!!!

年号は1930年ね。

 

ちなみにワシントン海軍軍縮条約(ここで詳しくやったよ)も一緒に見ておきたい。

ワシントン海軍軍縮条約は1922年に結ばれた条約。

 

ワシントン海軍軍縮条約は「主力艦」の保有比率を決めたんだね。

 

ロンドンは補助艦!ワシントンは主力艦!だから注意して。

 

ワシントン海軍軍縮条約は米・英・日・仏・伊の五カ国が調印して、

比率は5:5:3:1.67:1.67だったね。

 

ワシントン海軍軍縮条約で主力艦(重さ1トン以上)の保有比率を制限したんだけど、重さがぎりぎり主力艦(1トン)にならない補助艦がどんどん増えてしまった。これじゃあ、あんまり意味がないよね。

だからロンドン海軍軍縮条約で補助艦にも制限をかけたんだ。

 

ちなみにワシントン海軍軍縮条約のときも幣原は出席していたから(外相ではなく、このときは駐米大使だった)面白い。

 

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