国会開設の勅諭と明治十四年の政変!大隈重信は免官。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

前回は開拓使官有物払下げ事件についてやったね。

めちゃくちゃ安い金額で開拓使を五代友厚に売ろうとした事件だ。自由民権運動を明治政府に抑えつけられている人々としては、「おい!どうなってんだよ!ズブズブの関係かよ!」と明治政府を批判する良い機会だったわけだ。

このことから、国会開設の勅諭、明治十四年の政変へとつながっていくよ。

国会開設の勅諭とは?

伊藤博文は焦っていたよ。

開拓使官有物払下げ事件で、世間の人たちは、「おい!政府どうなってんだ!!」と明治政府を批判しまくっちゃったからさ。

そこで、伊藤博文は1881年10月に、

天皇に対して「10年後に国会開きませんか?」という公約をしてもらうんだね。

10年後

といった具合で時期を決めることによって、過激化する自由民権運動を抑えることもできるからね。
この国会開設の勅諭で俺ら大学受験の日本史組は、伊藤博文と大隈重信の権力争いに注目しないといけないよ。

時は、1881年。1878年には大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されたよね。

だから伊藤博文と大隈重信は主導権を争っていたわけだね。

○伊藤博文のポジション

漸進主義(ぜんしんしゅぎ)・・・英語だとGradualism(グラジュアリズム)というんだけどそっちの方がわかりやすよね。

Graduallyってのは「徐々に」って意味で、ゆっくり穏健に物事を進めていく政治ポジションのことなの。

伊藤博文は漸進主義で、国会開設は時期尚早としていたんだね。

君主の力が強いドイツ流の憲法を参考にすべき!という考えだったよ。

 

○大隈重信のポジション

急進主義(きゅうしんしゅぎ)・・・英語だとRadicalism(ラディカリズム)すぐに行動に移そうぜ!!どんどん改革していこうぜ!!という政治思想だね。大隈重信は興隆する自由民権運動をみて、「すぐに国会を開設すべき」としていたんだね。

伊藤博文とはまったく反対のポジション。

イギリス流の議会政治に基づき憲法を参考にすべきという考えだったよ。

 

ちょっとまとめておこう。

伊藤博文・・・ドイツ流、国会開設はまだ早い
大隈重信・・・イギリス流、すぐに国会開くべき

 

明治十四年の政変とは

 

自由民権運動が盛り上がっていく中で、政府としては

「いつ憲法を制定して、立憲政治にする?いつ議会開く?」

ということで、合意してたんだよね。もう立憲政治への移行は避けられないよね!っていう状態だっただわ。

 

そこで、ドイツ流のビスマルク憲法を推す伊藤博文は、急進的でイギリス流議会政治を推す大隈重信を追い出したのね。

これが明治十四年の政変ね。

 

開拓使官有物払下げ事件が起きて、明治政府に対する批判と自由民権運動が激化していってさ。

「大隈重信は自由民権運動に関与して、政権転覆を狙っている!黒幕は大隈重信だー!!」

とされて、免官させられるわけね。

これだけ聞くと物凄いよね。おもしろい。

実のところ、伊藤博文ってのは長州藩だし、黒田清隆、五代友厚は薩摩藩なんだよね。

そう!みーんな薩長なの。薩摩と長州は藩閥政治と言われて批判されていたけど、政治の重要人物は薩長が占めていたのね。だから佐賀藩出身の大隈重信を追い出すってのは納得できる出来事なんだよね。

大隈重信は開拓使官有物払下げ事件を物凄く批判していたから、伊藤博文からしたらよそ者の邪魔なやつだったわけだ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

当ブログの有効的な使い方

「大学受験の日本史を極めるブログ」は使い方1つで、結果が大きく違ってきます。

・国公立・早慶レベルまで知識を深めるには?
・知識を定着させるアウトプットの方法は?
・良くわからない時はどうしたらいいの?

そんな悩みを解決する、当ブログの使い方をじっくり読んでみてください。

当ブログの使い方はコチラ

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*