ペリー来航の開国から討幕までの流れ【まとめ】

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今日は200年以上続いた鎖国体制の江戸幕府を見事に開国し、薩長をはじめとする日本の人々の

思想が変わっていき、ついには江戸幕府を討幕した流れをまとめてみるよ。

今まで紹介した記事もまとめておくから、要チェックね!完全保存版だぜ。

少し長くなるから、休憩しながら読んでくれよな!

 

ペリー来航の開国から討幕まで

 

まずペリーがやってくる前に、イギリスが清とアヘン戦争を繰り広げているよ。

このアヘン戦争で清がイギリスの半植民地状態になったのは、日本にとって衝撃だったわけだ。

「あ、あの清がボロ負けだと・・・?欧米YABEEEEEE!!」

となるわけだ。これが1842年の話

アヘン戦争の日本への影響

 

これで、日本が取った行動ってのが、異国船打払令の緩和なんだわ。

「外国船打払っちゃうのやばくね?」

ってことで、天保の浸水給与令を出す。水と食料をあげますから、おとなしくお国にお引き取り下さい。ってやつ。

天保の薪水給与令で異国船打払い令の緩和

で、なんやかんや慌てているうちにペリーがどーん!と来航しちゃうわけ。

サスケハナ号に乗ってね。ペリーは中国と修好条約を事前に結んでいたから、日本とも同様の条約を結びたかったんだよね。

ペリー来航で活躍したのは阿部正弘

 

結局、日本は1854年に日米和親条約を結びことになり、下田と函館を開港させらるよね。その4年後1858年には強力なネゴシエーター・ハリスが、

「イギリスとフランスが同盟組んで日本襲ったらどうすんの?アロー号事件見たよね?わかるでしょ?俺の言いたいこと。」

ってな具合で、江戸幕府に迫って、日米修好通商条約を結ぶんだよね。

日米修好通商条約の5港はコレで覚えろ!

 

この日米修好通商条約の後に安政の五カ国条約で次々と不平等な条約を諸外国と結ぶわけ。

関税自主権が無い!治外法権!!ショーック!ダブルショーック!!

ってな具合で日本にとっては不平等な条約を結ばされたんだよね。

協定関税ってなんぞや?

 

この日米修好通商条約を結んだのは井伊直弼。孝明天皇の勅許(=お許し)も無しに勝手に条約を結んじゃったわけだ。

井伊直弼が抱えてた問題は日米修好通商条約だけじゃないよ。

将軍継嗣問題ってのも抱えてわけ。

将軍継嗣問題ってのは、13代将軍家定に子供がいなかったから、慶福を推す南紀派と一橋慶喜を推す一橋派に分かれてたんだよね。

井伊直弼ってのは南紀派で、自分に反対してくる奴はとにかく追い出したわけ!
井伊直弼は条約勅許に将軍継嗣問題にかなり追い込まれていて、みんなから袋叩きにあってたから、安政の大獄で反対するやつを処刑したりしたよね。

 

将軍継嗣問題とは?

安政の大獄をわかりやすく

そんな井伊直弼だけど、水戸藩の浪士らによってむなしくも殺されてしまうんだよ。これが桜田門外の変。

桜田門外の変

こういった事件から、江戸幕府の弱体化があらわになっていくわけ。諸外国とは条約を勝手に結んじゃうし、不平等な条約だし、反対してくるやつを処刑しちゃうしで。

江戸幕府いいとこなしなんだよね。

江戸幕府に任せていてもしょうがないから、水戸学や国学の影響でやっぱり天皇なんじゃない?ってのが尊王論。

志士からしたら、外国に好き勝手やられているから外国人追い出そうよ!!っていう気運が高まっていくわけ。これが攘夷論。つまりね。

 

外国人追い出そうぜ!→攘夷運動
やっぱ天皇でしょ! →尊王運動

合わせて、尊王攘夷運動になっていくんだよね。

ヒュースケン暗殺事件からわかる攘夷派の過激っぷり

尊王攘夷運動をわかりやすく

 

ここで、尊王攘夷運動を繰り広げるのは長州藩

会津藩と薩摩藩は公武合体派で幕府側の存在なのね。

いわば、薩摩と長州ってのは敵対関係にあったんだよ。

そっからひっくり返して、薩摩と長州が同盟を組んでいくとか、なかなかワクワクするでしょ?

 

「薩摩と長州ってなんで同盟なんか組んだの??仲悪かったんじゃないの??」

ってのが率直な感想だと思う。うん、俺もそう思ってた。

でもね薩摩も長州も外国とドンパチやっている経験があるんだよね。薩摩は生麦事件で薩英戦争を起こしているし、長州も下関砲撃事件の報復で四国艦隊アベンジャーズを戦っているしさ。

生麦事件が薩英戦争のきっかけ

長州藩の下関戦争

外国と戦うことによって、「攘夷って無理かもしれないね」ってい思想が長州にも薩摩にも芽生えるんだよね。

だって日本ってずっと鎖国してたからさ、近代的な欧米に敵うわけないんだもん。だから、江戸幕府を倒そうよ!って流れにシフトしていくわけんだわさ。

 
幕府よりだった薩摩藩の西郷隆盛どんも、第一次長州征伐では長州をボコボコにしないで穏便にことを済ませたんだよ。

ここで攘夷派の長州なんかやっつけちゃったら、江戸幕府に勢いがついちゃうからね。外国のいいようにやられている江戸幕府を勢いづけたところで、日本の未来は明るくならない!と考えていたわけだ。

第一次長州征伐と西郷隆盛

長州ってのは、八月十八の政変で一旦、京都を追い出されてさ。それまでは孝明天皇のも良い関係だったの。

同じ攘夷思想だったし、ただ、いかんせん京都での影響力を待ちすぎて追い出されちゃったのね。禁門の変では、天皇の門に銃弾浴びせちゃうし。だから、追い出されて長州に帰っていたわけんだよね。

でも、高杉晋作という素晴らしいリーダーが再び統率力を発揮してからは、討幕の動きに傾倒していくから。


第二次長州征伐では江戸幕府に連戦連勝!

それもそのはず。下関戦争で外国船に大砲ぶっ放しちゃった長州は外国から正式に武器を買うことができないんだけど、そこは薩長連合よ。

坂本竜馬が仲介しつつ、薩摩が外国から武器を買って横流しする!といウルトラCで幕府軍に勝つんだよ。

 

第二次長州征伐で江戸幕府終了

薩長同盟をわかりやすく

 

江戸幕府としては、もう弱体化しているのは誰の目からみても火を見るよりも明らかだから、第15代徳川慶喜はさっさと大政奉還をしちゃうのね。

慶喜の目論見としては、

薩摩と長州が武力で討幕をしてくる前に、こっちから天皇に実権を返しちゃってさ。

無傷じゃん。武力行使されなければ。で、領地とかもたくさんあるし人もいっぱいいるから、天皇が実権握っても自分の影響力をちょっと意地しながら政権に関わりあえるかなーって思ってたわけ。

 

そんなの薩長が許すかーい!!

ってことで、王政復古の大号令 → 慶喜の土地返せ!辞官納地を行うわけんだよね。

これにブチ切れた慶喜が戊辰戦争を起こすってことなんだ。

大政奉還をわかりやすく

王政復古の大号令

戊申戦争をわかりやすく

 

 

ここまでがペリー来航の開国から討幕までの一連の流れだね。しっかりと頭に入れておいてよ。

 

 

 

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