海北友松は個性派の障壁画家!作品は?

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前回は、桃山文化・美術部門で非常に多くの功績を残した狩野永徳について見てきたね。

永徳は『唐獅子図屏風』をはじめとする数々の障壁画を残していて、その豪華さは桃山文化を現出しているんだった。

 

というわけで桃山時代の画家として非常に有名な永徳なんだけど、今回紹介するのは現代だとあまり名が知られていない画家・海北友松だ。

 

友松は、現代でこそマイナーだけど桃山時代には超売れっ子画家だったんだ。

 

画家になるまでの経歴は謎が多い

友松が画家として名をあげ始めたのは60歳のころ。

遅咲きの画家だったんだ。

 

で、この画家になるまでの経歴というのが未だにはっきりと分かっていない。

浅井氏の家臣であった父・海北綱親の五男として生まれてきた。

 

・・・と言われているけど、これがそもそも三男だったんじゃないか、とも言われていて生まれからよくわかっていない。

 

幼少で父が戦死したことで、友松は東福寺に入り修行を始める。

ここで狩野元信or狩野永徳に絵を教わり、狩野派の影響を強く受けたといわれている。

 

そして60歳になったころから独自の画法で絵を描くようになり、それと同時にどんどん有名になっていった。

やがて秀吉にもその絵の才能を認められるなどし、のちに天皇家にも絵を描くなどあちこちから引っ張りだこになった。

友松の作品の特徴と代表作

友松は、狩野派で有名な金碧濃彩画(濃絵)も描いていたんだけど、特徴的なのは巨大な水墨画だ。

減筆法(複雑なものをできるだけ省略してシンプルに描く技法)と誇張を駆使して、簡素かつインパクトのある作品を多数生み出した。

 

中でも特に有名なのはこの作品だ。

  • 雲龍図襖

この襖は建仁寺のもので、建仁寺は当初「友松寺」とまで言われていたほど有名だ。

まとめ

海北友松がなぜ現代ではこんなにマイナーかというと、海北友松の子供以降素晴らしい才能をもった画家が生まれなかったことが一因とされている。

友松が突出した画家だったんだね。

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