宝暦事件を分かりやすく解説!もとは朝廷の揉め事?

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前回まで、江戸中期の名だたる国学者たちを見てきたね。

 

契沖にはじまり、荷田春満を経て賀茂真淵・本居宣長や塙保己一らにつながっていったんだった。

 

江戸時代中期には国学の浸透も相まって「尊王論(王者を貴ぶ思想)」が広まっていく。

 

これを弾圧したのが、宝暦事件だ。

詳しく見ていこう。

 

宝暦事件は初の尊王論者弾圧

この事件、もともとは朝廷での揉め事が発端だったんだ。

 

江戸幕府が朝廷運営のすべて「摂関家(公家の中のトップ)」に一任していたんだけど、江戸中期になってくると摂関家が衰退し始める。

 

というのも、当時摂関家のほとんどが若い当主で、十分な仕事ができなかったからだ。

そんな中で、竹内式部という人物が天皇の側近に対して「垂加神道(山崎闇斎が大成した神道)」を教え始める。

 

垂加神道には「天皇への信仰」という教えが含まれていて、当時の摂関家の支配や幕府の支配に納得がいっていなかった若い公家たちは次第に

「天皇こそやっぱ最強だよ!何が幕府だ。あんなもん倒しちまえばいいんだ!」

という過激な思想になっていく。

 

これを憂慮した摂関家・一条家は、このことを幕府にチクり、ついでに尊王思想を持った公家たちを追放する。

 

その後幕府側が公家たちを処罰し、神道を教えた竹内式部は追放を食らう。

まとめ

もとはといえば朝廷内の揉め事だったこの事件だけど、よくよく考えると尊王論を唱えた人間が処罰された事件でもある。

 

幕府としては、「天皇が一番!幕府を倒せ!」って団結されるのを恐れていたから、弾圧するのも必然だね。

 

これで一件落着・・・とおもいきや、この事件には続きがある。

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