盲目の国学者・塙保己一の過去が壮絶。

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前回は、国学発展に大きく貢献した国学者・本居宣長について見てきたね。

今回と次回では、これまでの国学者たちとは異なるタイプの国学者、塙保己一(はなわほきいち)についてクローズアップする。

幼少期に失明した苦労人

生まれたころからそんなに体が丈夫じゃなかった保己一は、5歳の時にかかった胃腸炎が原因で7歳の時に失明してしまう。

 

文字は手のひらに指で書いてもらうことで覚え、触覚や嗅覚をフルに使うことで草花を見分けることができたという。

 

よく身体が不自由な人の中には、普通の人間では到底持ちえないような突出した才能を持つ人たちがいるよね。

保己一もそのような人の一人だったのか、失明してから物覚えがとんでもなく良くなり、家族が話したことを一字一句忘れなかったという。

 

15歳の時に「江戸で学問を学びたい!」という一心から家を出て、3年間は盲人として生きていくための修業をした。

17歳で身体が不自由な人のための職業訓練学校にである「検校」に入る。

 

しかし手先が器用ではなかった保己一は上手くいかず。

一時は自殺も考えた。

 

しかし学問への熱意は変わらずにあり、その意気を見込んだ検校は保己一に国学神道法律医学など、様々な分野を学習させてみた。

 

もちろん字は読めないから、人が音読したものをすべて暗記するという勉強法だった。

すごすぎる・・・。

 

すると保己一はみるみるうちに知識を付けていき、どれもこれも習得していってしまった。

検校、ナイス判断だ。

 

その後は賀茂真淵に入門するなどしてさらに知識を深めていく。

 

また、幕府から許可を得て、学問所である「和学講談所」を設立する。

ここでは次回説明する『群書類従』の作成も行われた。

まとめ

保己一は、目が見えないというハンデを背負いながらも、常人よりはるかに努力し、知識を深めていった。

 

次回は、その知識を生かして取り組んだ『群書類従』作成事業について見ていくよ。

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